※ 『BLEACH』 京×浮です。


[ 花鳥風月 ]より ―月(IZAYOIDUKI)―                           




 月は皓々と冴え、雲のない群青の空に浮かんでいた。

 寝所の裏から続く後庭の最奥は、人気のない竹林になっている。京楽春水はそこでぼんやり過ごす時間が好きだ。休日はもちろん、任務中でも暇があると抜け出して、ひと時の惰眠を貪るので、いつも副官の伊勢七緒に叱られるのだが、それもまた楽しかった。
 折りしも月の出の美しい夜。月見酒をせずにいられようか――「否」と自答した京楽が徳利を提げ竹林に入って、小半時が経っていた。
「ああ、やっぱりここにいたか」
 頭の上で声がして京楽が見上げると、そこには浮竹十四郎が立っていた。彼が隊務以外で京楽を訪なうのは珍しい。「どうした?」と聞くより先に、浮竹は持参した徳利を見せる。
「月がきれいだから、一杯どうかと思って。宿舎にいないなら、ここだろうと伊勢に聞いてな」
と言い、隣に腰を下ろした。浮竹が手酌で注ごうとするので、京楽は横からそれを攫い、自分の徳利から彼の杯に注いだ。
 聞こえるのは虫の音と、時折の風に起きる笹の葉擦れの音くらいで、本当に静かな夜だ。杯に月を浮かばせれば、一杯、二杯と、酒はすぐに喉の奥に消える。とは言え、酒量が進むのは京楽の方ばかりだった。虚弱な質の浮竹は、もともと酒に強い方ではなく、つきあい程度にしか口をつけない。それに、件の『藍染の乱』における無理がたたり、先日まで寝込んでいて本調子ではなかったから、なお更に一杯目が減らなかった。
――あの時は、ずい分と無理をさせちまったからな…
 京楽は、杯の端に口をつけるだけの浮竹の横顔を見つめた。少し頬がこけたように思うのは、気のせいではないだろう。
 朽木ルキアの処刑阻止のため、浮竹は四楓院家の宝具を解放した。それだけでも十分に体力は消耗されたと言うのに、その後、京楽と共に皮肉にもかつての師である山本元柳斎と対峙しなければならなかった。護廷十三隊を束ね、老齢でありながら他を寄せ付けない霊圧を、未だ保持する彼と向き合うことは、隊長級と言えども、かなりの負担を強いられる。その上に師弟対決。精神的にも、重圧がかかったはずだ。
 そして護廷十三隊として瀞霊廷を守護した仲間の裏切りと言う結末。健常な京楽でさえ、全ての事が済んだ後、疲れが残ったことを否めなかった。
「なんだ? 何か、俺の顔についているのか?」
 浮竹の横顔に、京楽の視線は長く留まっていたようだ。彼が振り向いた。病弱な体質についての同情は、浮竹の心情に沿うものではない。たとえそれが気遣いによるものだとしても、床を上げたかぎりは病人ではなく、護廷十三番隊隊長であると言うのが彼の持論であり、自尊心だ。それを知る京楽は、だから、
「や、月に劣らず良い男ぶりだと思ってね」
と逸らした。そして月の光を吸って、ともすれば白銀に光る彼の長い髪を一房手に取ると、引き寄せてその唇に接吻した。
「な…、何をするんだ?!」
 浮竹が後ろに傾ぐ。くつくつと京楽が笑うと、彼の表情が緩んだ。からかわれたとでも思ったに違いない。
「馬鹿なこと、するなよ」
「ごめん、ごめん」
 浮竹の手から落ちた杯を拾い上げ渡す。それに二杯目を注ぐ京楽の手が止まった。
「でも、からかい半分、本気半分って言ったら?」
 京楽が持参した徳利は、すっかり空になっていた。浮竹は飲んでいないに等しいから、ほとんど一人で飲んだことになる。弱い方ではないが、多少は酔いが回っているのかも知れない。それとも、こうして二人だけで酒を酌み交わすことに、『酔っている』のか。
 確かに、浮竹の自尊心を傷つけまいと思っての所作だったが、彼の唇の感触と得体の知れない酔いが、封印したものを呼び覚ました。
「何を…言ってる?」
「あの夜を思い出していると言ったら、君はまたボクの手から離れてしまうのかな、十四郎?」
「京楽」
 寛厚で人望厚い浮竹と、思慮深く、『真贋』を見極める目に長けた京楽。初めて目見えた時から気心が知れて、統学院在学中は常に一対で見られる存在であった。互いに高め合いながら精進し、いつしか友情以上の感情が芽生えていることを知りつつも、確かめることなく過ごした。その日々が明日で終わるとなったあの夜――卒業前夜、切なく、激しい吐息だけが、想いを知る手立てだとでも言うように、貪るがごとく求め合った。
 夢のような一夜はしかし、けじめの線を引いた夜でもあった。それを境に、互いを名前で呼ぶことも止めた。そう望んだのは浮竹だ。京楽は友人としての彼をも失いたくないがゆえに、その望みを受け入れた。甘やかな感情と関係は、新たに始まる日々にどう作用するとも知れない。尸魂界の要・瀞霊廷を護ると言う職務には、危険がついて回る。恋情を断ち切れないなら、友としても情は交わさぬと、浮竹の穏やかな目は語っていたから。
 卒業して、二人は別々の隊に振り分けられた。十三隊あるとは言っても瀞霊廷は広い。現世に赴く任務が混ざれば、会う機会も極端に減った。二人の間は意識的にでないにせよ、離れて行く。隊長位に着くと諸事に忙殺され、更に間遠くなった。定例隊首会で顔を合わせても、挨拶と意見の交換と世間話がせいぜいだ。だから、隊務を通さずに会うことは、「珍しい」と言うよりも、「ほとんどない」と言った方が正しかった。
 想いは時の中に封じられた。
「皮肉なこった。今回のことで、ボクは自分の気持ちを思い出しちまった」
「京楽」
「朽木ルキアの処刑阻止に、同じ気持ちでいたことを知った時、ボクはね、思い出してしまったんだよ、十四郎」
 大罪人・朽木ルキアを救うことは、中央四十六室や、護廷十三隊、ひいては瀞霊廷の総意に沿わぬ行為だった。全てを敵に回す覚悟でいた京楽は、浮竹もまた同じ思いでいることを知ったのだ。四楓院家の宝具を解放し、力を組して双きょくの第二撃を止めた。山本元柳斎の前に、二人して立った。
 そうしてまた、距離は縮まった。
「こうして、君とここにいられることを、単純に喜んでる」
「…京楽、月は古来、不思議な力を有していると言われている」
 緊張を隠さなかった浮竹は、それでも少し気を緩めた。
「月?」
「今夜は見事な望月(満月)だ。おまえはその光に中てられているんだ」
 浮竹はそう言うと、杯の酒を流し込んだ。水とはあきらかに違う喉越しに、たちまち咽て激しく咳き込む。京楽は背中に手をあてがい、さすってやった。浮竹はそれを拒まなかったが、京楽が少しでも引き寄せる仕草を見せると、途端に体を硬くする。
 京楽は苦笑とも、自嘲とも取れる笑みを浮かべた。
「十四郎、今夜は望月じゃあないよ。不知夜月(十六夜)だ。『いざよい』は『ためらう』に通じる。望月より月の出が遅れるから、『月の出を躊躇う月』とも呼ばれているって、知っていたかい?」
「京楽?」
 咳が治まりかけて、浮竹が京楽を見る。咽て潤んだ瞳が扇情的だ…と京楽は思った。
「ボクたち二人を照らすのに、相応しいと思わない? 躊躇ってばかりだからね。確かに惹かれあっていたはずなのに、想いを確かめるのを躊躇って、今日まで来ちまった」
 今もまだ躊躇っている。浮竹を摩るその手を肩に回して引き寄せることは簡単だ。病み上がりの肩は細く身体に入る力は弱い。しかし、京楽はついにそれをせず、身を離した。浮竹が持参した徳利から、自分の杯に酒を注ぐ。
 月が中でゆらゆらと揺れた。
「俺は、そろそろ戻るよ。黙って出て来たから。寝所にいないのが知れると、小椿達が騒ぎ出す」
 息が整った浮竹は腰を上げた。
 想いを言葉にしたことに悔いはない。それでも感情を押し付けるのは、京楽の主義に合わなかったし、らしくもなかった。
「戯言が過ぎたね。君の言う通り、月に中てられたらしい。これに懲りずに、また飲もう」
 京楽は杯の中に視線を落としたまま言った。
 浮竹が踏み出す音がする。二歩、三歩と遠ざかろうとする段になって、京楽は振り返った――「なぜ?」と言葉を添えて。
 二人で酒を酌み交わすなど、数百年なかった。多忙を理由にして、作らなかった機会だ。
 答えはないものと諦め、再び杯に目を戻す。
「さあ…、俺もまた、不知夜月の光に中てられたのかも知れぬよ、春水」
 ざああ…と、一層に葉擦れの音。京楽は慌てて振り返る。が、瞬歩、すでに浮竹の姿はなかった。
 月は皓々。満願成就の望月に、似て非なる光を放つ不知夜月だ。一夜遅れの月見酒に、何か暗示はあるのか?
「まあいいさ、『望月』への楽しみが増すってもんさね」
 躊躇いながらも上り、空に在り続ける其の月に杯を向けて、京楽はゆっくりと酒を飲み干した。
 
                               (了) 2007.08.30
                                                   



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