注) このお話は『Slow Luv Op.4』の後の話です。







 Armonia





 勝手知ったる何とかで、曽和英介は加納家の玄関には寄らず、ガレージを通ってカノウ音楽教室のレッスン室に回る。
 庭に面した窓から、悦嗣とさく也の姿が見えた。何かの曲を二人で合わせているらしい。とても楽しそうで、さく也の口元は綻んでいる。Wオケ時代の同僚が見たなら、さぞかし驚くことだろう。そのポーカーフェイスぶりから、さく也は『アイスドール』とあだ名されていたくらいだ。笑顔など、年に数度も拝めなかった。
 もっとも彼が以前より表情豊かになったかと言うと、そうではない。今のところ無意識に、そしてごく自然に笑顔を見せる相手は、唯一の肉親である弟と、恋人である加納悦嗣の二人だけに限定されている。


『さく也と弾くのは苦手だ。引きずられるし、緊張する』


 普段、そう言ってはばからない悦嗣だが、英介の見解は違っていた。
――本人は自覚してないみたいだけど、案外、いつも楽しそうに弾いてるんだよな、エツは。
 悦嗣はピアニストになることを『勝手に』挫折して、別の道を選んだ。それが引け目になって、稀有な才能の持ち主である中原さく也と弾くことに、気後れしている。しかし本人が思うほど遜色は感じられない。気後れ――むしろ、さく也の音に挑むようにさえ聴こえた。類希なヴァイオリンの音色を得て、ピアニストとしての本能が剥きだしになる。英介にはそう見えた。
――まったく素直じゃないんだから。今のその顔、見せてやりたいよ。

 そうだ…と、英介はポケットから携帯電話を取り出す。それからフォト・モードにして窓の中に向けようとした時、
「何、してんだ、エースケ、そんなとこで?」
窓が開いて、被写体になるべき悦嗣が顔を覗かせた。
「残念。楽しそうだから写真に撮ろうと思ったのに」
 英介の返答に、悦嗣の口がへの字になった。
「遅れて来て、何言ってやがる。さっさと中に入れよ。時間がもったいないだろ」
 英介がここに来たのは、二人の邪魔をするためではない。十分、お邪魔虫的存在ではあるのだが。
 二ヶ月後に悦嗣の妹・夏希の結婚式があり、その披露宴で英介は悦嗣とさく也とで三重奏することになっていた。今日は初合わせの日。と言っても、さく也が多忙なせいで、あとは結婚式前日まで三人が揃うことはない。今日の練習も急きょ決まった。さく也が無理矢理夏期休暇を取って、一昨日の夜にヨーロッパから戻ってきたからだ。明日の午後に彼はまたロンドンに発たなければならず、おかげで英介は夏風邪を引いたことにして、入っていた予定をキャンセルして出向いてきた。
 さく也の日本滞在時間は実質二日。かなりの強行軍と言える。
――愛だなぁ
 さく也はとにかく悦嗣との時間を作りたいのだ。せっかく自由な時間が持てると思い、オケを退団してソリストになったと言うのに、逆に忙しくなって日本にはなかなか居着けないのが現状だった。英介が遅れてきたのは、少しでも二人で過ごせる時間を作ってやりたいがゆえなのだが、その心遣いは悦嗣にはまったく伝わっていない。周りの人間のことにはよく気がつく癖に、自分のこととなると途端に疎くなる悦嗣であった。
「で、楽しそうに何を弾いていたんだい?」
 レッスン室に入り、開かれた楽譜を見た。自分達が演るトリオの曲とは違う。
「ゴセックのガヴォット? なんだ、『バイエル』
(脚注1)じゃないか」
「誰かさんが来るまでの指慣らしだから、この程度でいいんだ」
 悦嗣はその楽譜を脇にどけた。
「ブラームスの指慣らしにゴセック? どうせなら、もっと動きのあるのにすればいいのに。久しぶりに二人のチャイコが聴きたいなぁ」
「指慣らしで疲れたくないし、そんな暇はないだろ。エースケ、三人で合わせられるのは、今日を入れて二回ってこと、わかってんのか? たかが披露宴の余興にブラームスのトリオなんか持ってくんなよ。二番
(脚注2)なんて、俺は弾いたことねぇんだぞ」
「だって夏希ちゃんの希望だし。だったらエルガーに変える? あれなら弾き慣れているから、ぶっつけでも弾ける」
「あんな縁起の悪い曲、弾けるか」
 エルガーの『愛の挨拶』は披露宴の余興で好まれる曲で、悦嗣も英介もよく弾いた。しかしなぜか彼らがその曲を贈ったカップルの離婚率が高い。かく言う英介のところも復縁はしたものの、その離婚したカップルの一組だった。悦嗣は縁起が悪いと思っていても乞われれば弾いたが、さすがに可愛い妹の披露宴では弾きたくないらしい。
 喉の奥で笑った英介の頭を、悦嗣が軽く小突いた。目はさっさと支度しろと催促している。英介は肩を竦めて、部屋の隅の長机の上に持参したチェロ・ケースを乗せた。
 さく也が調弦している。笑みは消え、いつものポーカーフェイスに戻っていた。混ざりけのない純粋な象牙色の頬からは表情は読み取れないが、きっともう少し弾いていたかったろうと英介は思う。
 英介自身、ちゃんと彼らのデュエットを聴きたかった。彼らが二人で弾いている時の、緊張感と楽しさが入り混じった不思議な雰囲気と、それによって紡ぎだされる音楽が好きだった。
 さく也と弾く時にだけ、ピアニストの顔に戻る悦嗣。悦嗣と弾く時にだけ、本来の表情を見せるさく也――内面をさらけ出し、互いの音を求め合う相乗効果が独特の調和を生み、聴く者の耳を支配する。
 二人だから作り出せる音楽。二人でなければ作り出せない音楽。
――いいデュオだ
 残念ながら彼らの音楽は簡単には聴けない。親友の英介でさえ、何か理由をつけて機会を作らなければ、その『音』に触れられなかった。今回、夏希に三人で弾いてほしいとは頼まれたのだが、ブラームスを選曲したのが彼女ではなく、英介であることは秘密である。
――さて、次回はどんな理由で引っ張り出すかな
 などと考えていたら、「エースケ!」と悦嗣の声が飛んできた。
「はいはい」
 英介は苦笑して巡らしかけた考えを一端置いて、チェロを取り出した。




<end>2009.11.26





脚注1)
フェルディナント・バイエルが著したピアノ奏法入門書=バイエルピアノ教則本。昔はピアノの習い始めは必ずと言っていいほど、バイエルから始めました。
ここでは「バイエル程度で弾ける簡単な曲」と言う意味で使っています。


脚注2)
ブラームスのピアノ三重奏第二番 ハ長調作品87のことです。
詳しくは出していませんが、悦嗣達は夏希の披露宴で第一楽章を弾く…と言う設定になっています(だいたい10分弱の長さ)



Armonia(アルモニア)=調和、ハーモニー(伊)。


                       

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