作中に掲載のイラストは紙魚様より賜りました。
  著作権は紙魚様にございます。
 







 Soulful Sea





「その髭、願でもかけてるの?」
 淡路が尋ねると、彼は一瞬、驚いたように目を見開き、「どうしてですか?」と逆に問い返された。
「だって、全然、似合ってないから。みんなに『剃れ、剃れ』って言われるでしょ?」
 自分の顎髭に触れて彼は笑んだ。
「何の願かけ?」
 淡路続けての問いに、彼は答えなかった。
 しかし目元にうっすらと朱が入ったことを淡路は見逃さない。それできっとその願は、色恋関係なのだろうと思った。
 



 淡路恭祐は鎌倉でスイーツの店を営んでいる。修業先のフランスから戻って、生まれ故郷の軽井沢でも、スイーツの中心地の東京でもなく鎌倉に店を構えたのは、常々、海の側に住みたいと言う願望があったからだ。山間の町で育った淡路には、海に強い憧れがあった。数件の候補の中に海辺の物件を見つけ、迷わず決めたところが鎌倉だった。
 店の眼前には海。淡路は厨房は海側に作り、三方に大きな窓をくりぬいて、白い波しぶきやら、青く光る海面、沈む真っ赤な夕日を見ながら菓子作りをしたかったのだが、「絶好のロケーションはお客様のために」と、コンサルティング担当の友人に反対された。菓子は温度等にデリケートなものが多い。「傷みやすい環境にわざわざするなんて」と、これも友人の同業者にも言われてしまっては引き下がるしかなく、特等席は来店客のスペースに譲った。
 海に憧れてはいても、海に入ることが好きかと言えばそうではなく、海水浴もサーフィンも興味はなかった。第一、淡路は泳げない。だから休みの日はもっぱらクロスバイクに跨り、前かごにちょっとメタボ気味の愛犬・ポン太を乗せて、海岸沿いの道を南に葉山辺りまで下る。そして砂浜や堤防に座って日がな一日過ごし、夕日が沈み始めるのを眺めつつ帰路につくのだ。実に地味な趣味である。百八十を越す長身に、トレンチ・ベリーショートの髪は銀色、黒いレンズのロイド・フレーム、濃淡はあるにしろ上下黒ずくめと言う彼のオフのいでたちは、地味と言うよりはむしろ、怪しげな派手さに満ちていたが。
 淡路がそのサーファーを見知ったのは、葉山の海岸だった。
 季節は冬に差し掛かっていた。シーズン・オフの砂浜は夏ほどの賑わいはないものの、波乗りを楽しむ若者達の姿は平日でも絶えない。
 晩秋の海は波が荒く、見た目にも寒そうだった。いくら水温の方が気温よりも高いとは言え、寒いことには違いないだろうに、水の中の連中はそんなことを微塵も感じさせず、波と戯れていた。
「寒くないのかねぇ、若いっていいなぁ」
 波間に見え隠れするサーファー達の姿に向けて、淡路は感心するように独りごちた。寒風吹き荒ぶ中、砂浜の流木に腰をかけ、海を飽かずにただ眺めている自分の『酔狂』など、棚上げである。
 そんな淡路のすぐ脇を、一人のサーファーが行き過ぎた。
 年の頃は二十代後半。黒いウェットスーツが、スラリとした身体の線を否応なしに見せつける。ほんの少し露出しているだけにもかかわらず、肌は十分に滑らかな白さを淡路に意識させた。
 遊びに飽きて淡路の足元にうずくまっていたポン太は、飼い主以外の人間の登場にすぐさま反応する。
 リード・フリッピーを限界ギリギリまで延ばし、自分の足にじゃれつく犬に彼は目を落す。口元が少し綻んでいた。




         




「すみませーん!」
と淡路は声をかけてリードを引く。戻る犬に合わせて、彼が振り返った。風に煽られる髪を手で押さえながら会釈すると、海に向って去って行った。
 淡路は思わず息を呑んだ。その清楚な美貌と言ったら。黒いウェットスーツを身に着けているのに、白い花をイメージさせる。
――同性に対して、その喩えはどうなんだ?
 芸術性も問われるパティシエと言う職にありながら、他に上手い表現も、具体的な花の名前も浮かばない。作文は大の苦手だった。
 もし淡路に想う相手がいなければ、一瞬にして恋に落ちていた。淡路の恋愛対象は異性ではなかったからだ。しかし想う相手が他にいても、淡路の目はその日、彼を追わずにはいられなかった。そして、どんなに波間に隠れても、どれだけ離れて小さくなっても、彼の姿を認識出来た。
 
 


 彼とは毎回会えるわけではなく、会っても会釈程度で言葉を交わすことはなかった。
 それでも彼の正体はすぐに知れた。葉山の何とかと言うBarの、バーテンダーを兼ねる雇われ店長で、サーフィンの腕前とその容姿のため、この辺りではちょっとした有名人だった。
  最初に出会った場所が彼のサーフ・スポットらしい。そこは淡路のお気に入りの場所のひとつでもあった。出会う偶然を期待しなかったと言い切れない。実際あれ以来、淡路が訪れるのはその場所だった。
 彼が現れると、男女問わず色めき立つのがわかる。通り過ぎると、誰もが振り返った。中にはあからさまな『視線』を送る者もいて――たいていは同性だったりする――それなりにモーションもかけたが、彼は嫌味のない笑顔で上手くかわした。
 相手がしつこく食い下がらないのは、彼にそうさせない独特の雰囲気があるからだと淡路は思った。簡単に触れてはならない、冒しがたい清しさが、オーラとなって彼を包んでいる。気後れせずに向って行くのは、淡路の愛犬・ポン太くらいのものである。
 ポメラニアンと言っても誰も信じてくれないほどに、縦にも横にも育った焦げ茶の毛色のポン太は、名前から連想させる通りに狸そっくりで、パッと見怪しい飼い主と違って人気者である。そんなポン太だから、件の彼も人間に声をかけられるのとは違って、とてもフレンドリーな表情を見せた。
 十メートルのリードの先で、束の間、親交する一人と一匹。しかし淡路はそれを見ているだけで、彼自身には話しかけることはしなかった。飼い犬を使って気を引く下心があると勘ぐられるのは心外だったし、淡路の心のどこかで警告音が微かに鳴っていたからだ。
 実は嫌いなタイプじゃない。むしろ、好みのタイプだった。
 清楚で押し付けがましくない美しさと清廉な雰囲気。同じバーテンダーと言うこともあって、淡路の想い人にどことなく重なった。美貌から言えば、こちらの方が圧倒的に上だった。ただ、人を踏み込ませないガードの堅さを思わせるところは、よく似ていた。堅固だからこそ、どちらも情熱的な恋をするのではないかと、淡路の妄想をかきたてる。
――いやいや、これは浮気心じゃないぞ
 それにしても…と淡路は思う。どこを切り取っても美しい形(なり)をしているのに、あの無粋な顎鬚は何だ? そこだけが別世界で、完璧な美の調和を損ねていた。初対面の時から、違和感があって仕方がない。
――似合ってると思ってんのかね。俺が彼氏なら、絶対剃れって言うぞ
 もし付き合っている彼女がいて、それを望んだのだとしたら、自分の彼氏の魅力を全然わかっていない。そんな女はさっさと別れろと言ってやりたかった。
 淡路は彼を見かける度に、あの髭が気になるようになった。見るからに体毛が薄そうな彼が、あれっぽっち伸ばすのだって、かなりの月日を要したろう。それだけに拘りがある髭に思えた。シェーバーを贈って、反応を見てみたい衝動に駆られる。
 それでとうとう出会いから一年を過ぎる頃、自分なりの禁を破り淡路は彼に話かけた。
 海から上がる彼にポン太をわざと向わせ、リードを手繰りながら淡路は初めて間近に彼を見た。濡れた髪を、グローブをしたままの手が額から後ろにかき上げる。雫が顔の輪郭を伝って落ちた。露になった耳たぶが、水の冷たさで薔薇色に染まっている。何の小細工もないそれらが扇情的で、淡路は体温が一℃上がった気がした。同時に考えていた『シナリオ』は吹っ飛んで、単刀直入な問いが意思に反して言葉になる。
「その髭、願でもかけてるの?」




「久しぶりに会ったら、髭、なかったんだよな」
 淡路は今夜二杯目のソウル・キスを頼んだ。バーテンダーの越野が空になったカクテル・グラスを下げようと手を伸ばす。淡路はその手を掴んだ。こう言ったジョークに慣れている越野は掴まれた手を無理に外すでもなく、「おかわりが作れませんよ?」と笑った。
 ここ『ヴォーチェ・ドルチェ』は、アルコールの肴にチョコレートしか出さない変わったBarだ。その上、女人禁制、嘴の黄色い学生などのお子様男子はお断り。男性専科だが、『その手のお仲間』が集まる場所ではなく――『その手のお仲間』も少なくはないが――、仕事や家庭、日常に疲れた男が、ふらりと心身を休めに訪れる隠れ家的な店だった。だから客もほとんどが「お一人様」で、照明を極力抑えた店内はとても静かである。




    




 淡路の想い人は『ヴォーチェ・ドルチェ』のバーテンダー・越野環だった。と言っても相思相愛ではない。完全に淡路の片想いの上に、誠心誠意の口説きも越野には冗談だと映っているらしく、つまりは全く相手にされていない状況だった。
 越野は決して店の客と外で会わない。食事はおろか、ケーキ・セットですら誘いに応じなかった。身持ちが堅いわけではなく、休みの夜には時々『その手のお仲間』が集まる店に出没し、お持ち帰りしたり、されたりと適当に遊んでいるようなのだが、それでも擦れた感じがしない。これと言って目立つ美形ではないのに、不思議と清潔な色気があった。清潔な色気と言うのも妙な表現だが、越野には強引に触れることを躊躇わせるほどの、不可侵な魅力があった。それが『彼』と重なる。
 オーダーしたカクテルを作る越野の手元を見ながら、淡路は『彼』のことを考えていた。
 クリスマスから春先までスイーツが欠かせない行事が続き、Confiserie Awazi(コンフィズリー・アワジ)は休日返上で忙しかった。従って淡路も『地味な趣味』にあてる時間を作れず、ようやっと通常営業に戻ってあの海岸に行ったのは、彼にあの質問をしてから三ヶ月以上経った頃だった。
 ラッキーにも彼の姿を見ることが出来たのだが、その顎にはもう髭はなかった。
 突進していくポン太に気づき、振り返った彼と目が合ったので、淡路は自分の顎を指して見せた。彼は今まで見たことのないような極上の笑みを浮かべ、いつものようにポン太を一撫で、二撫でした後、波打ち際に向った。願いが叶ったのだと、淡路にはわかった。
「ビーチでのキス・シーンは語り草だ。思った通り、情熱的な子だったよ、彼」
 彼がビーチで恋人と熱烈なキスを交わしたことは、今でも話題に上がる。近頃は公衆の面前でのキス・シーンなど珍しくもないが、相手が同性で、結構名の知れた建築家だったことが周囲を驚かせたのだった。
 この恋は誰に恥じることはない――美しさが倍増しになった彼を見て、ビーチでのキス・シーンのことを知ると、恋人を心から愛していることと、二人の強い絆が窺えた。
「環君は何か願掛けしたことあるのか?」
 淡路の目の前で、カクテルがグラスに注がれた。
「さあ、どうでしょう?」
 越野は笑んだ。薄暗いカウンターの中、手元を照らすキャンドルの火に浮かび上がるポーカー・フェイス。しかし越野もまた、情熱的な恋をするのだろうと思っている。出来ればその相手は、自分でありたい。
――願掛けするは、俺の方かも知れないな
 淡路は苦笑した。ああ、そうか、『彼』が越野と重なったからではなく、あの一途な想いの中に自分のそれがシンクロしたから、知らず知らずに彼を意識したのだ。似合わない無粋なその顎鬚が、雄弁に『何か』を語っているかに見えて妙に気になってならなかったのも、そのせいだったのかも知れない。
 今、わかった…と、淡路はカクテル・グラスの縁をクルリと撫でた。
「その彼もね、バーテンダーなんだ。『シーラカンス』って言って、葉山じゃ評判の良い店らしい。今度、行ってみないか?」
 無駄だと知りつつも誘ってみる。同業者で評判の良い店だと言えば、少しは興味を持つかもと期待した。
 案の定、越野は首を縦に振らず、受けた次のオーダーのために淡路の前から離れた。
――やっぱり願掛けするかな
 淡路は出来上がったばかりのソウル・キスに、唇を寄せた。




                          <end>2009.07.02

                       

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