Jaune  [ Fidélité ]        





 暮林はバックミラーで後部座席の篁を窺い見る。彼は腕を組み、目を閉じていた。窓側に頭が少し傾いで、時折差し込む道路の黄色い照明灯が、その面差しの疲れを照らし出す。
――無理もない。
 この一週間の篁のスケジュールを反芻し、暮林は浅く息を吐いた。
「専務は知っての通り、オンとオフの時間的境界が曖昧です。ご自分の若さを過信して、放っておくと際限がないから、十分に注意すること」
 暮林が第一秘書の近森理沙からそう申し送りを受けたのは、二週間前のことだ。
 妊娠六ヶ月目に入った近森は、妊婦然としたヴィジュアルと体調を慮って第一線から退き、後を第二秘書の暮林隆也にまかせ社長室でのデスク・ワークに就くことになった。妊娠がわかってから徐々に委譲は始まっていたが、彼女の産休による長期不在が間近くなり、篁のスケジュールの管理・調整も、先々週から暮林が一人で取り仕切ることになった。
 しかし近森から「十分に」と念押しされたにもかかわらず、暮林は精力的に動く篁をセーブすることが出来ずにいる。予定をコントロールしなければならない立場であるのに、逆に暮林がコントロールされ、近森の手が完全に離れた一週間、篁のスケジュールは過密を極めた。予定を入れなかったはずの週末の夜も、いつの間にかノーブルウィング社専務との食事が入っている始末。
 ノーブルウィング社専務・D.エヴァンスと一緒の日は、篁はたいてい朝まで拘束された。いつもなら暮林は先に帰され、篁はタクシーを使って帰宅するのだが、翌日にゴルフ・コンペが入っている今日は、早めに切り上げるから待つようにと指示を受けた。それでも日付を大きく跨ぎ、彼が車に乗り込んだのは午前二時を回っていた。
 夜中まで仕事がずれ込むことには慣れている。篁エレクトロニクスの専務取締役・篁亜朗の秘書になって一年余り。暮林の主な仕事は近森が動けない時間帯をカバーするもので、午前様帰宅が日常的だったからだ。辛いと思ったことは一度も無かった――のだが。
 車は篁の自宅マンションの近くまで来ていた。よく眠っている彼を起こしたくなかったので、まっすぐ車寄せには入らず、路肩に一旦駐車する。
――情けないヤツだ、俺は…。
 暮林は自分の管理能力の低さを情けなく思った。近森がスケジュール管理をしていた頃は、どんなに遅い時間帯になっても、篁が車中で眠る姿を見たことがなかったからだ。
 入社してからずっと秘書畑できた近森と、篁の役員就任後にセールスエンジニアから異動してきた自分とでは、能力以前に経験の差が否めないが、それにしても、これほどスケジュールに振り回されようとは、暮林には予想出来なかった。
 業務を引き継いで間もないことは、言い訳にはならない。社長室に転属して一年と少し、近森の妊娠を知らされて四ヶ月近くが経っていた。仕事の回し方を学ぶ時間は、十分過ぎるほどあったはずだ。自分はいったい何をしていたのだと、ハンドルに添えられた暮林の手に力が入った。
 バックミラーに目をやる。
「専務」
 眠っているとばかり思っていた篁と、ミラー越しで目が合った。暮林は慌てて振り返る。
「着いたのなら、なぜ起こさない?」
「申し訳ありません。よく眠ってらしたので」
 暮林は前に向き直りサイド・ブレーキを下ろすと、車をゆっくり発進させた。
 ほどなくマンションに着き、暮林は車から降りて後部座席のドアを開けた。篁がネクタイを緩めながら車外に出る。少し前まで彼の顔に浮かんでいた疲れは、もう見えなかった。
「モーニング・コールは六時半でよろしいですか?」
「六時にしてくれ。眠気覚ましにシャワーを浴びたいから」
 午前六時まで四時間もない。仮眠程度でこの人はまた出かけるのか…と思うと、暮林の心は重くなった。
 寝起きの悪い篁は遅れることの出来ない予定がある時、寝心地の良いベッドではなくソファや椅子などで寝すむ。きっと今日もリビングのソファあたりが寝床になるだろう。そうなることがわかっていたから、金曜の夜に予定を入れずにおいたのに――暮林は唇を引き結んだ。
「恐い顔だな。心配しなくても起きるさ」
 そんな暮林の表情を、篁が指摘する。暮林は堪らなくなって頭を下げた。
「申し訳ありません」
「何を謝る?」
 秘書である自分のスケジュール管理の拙さが篁の負担となっていることを詫びて、再度、暮林は頭を下げた。
「くくく…」
 暮林の頭に笑い声が降る。顔を上げると、口の端に笑みを残す篁と目が合った。
「俺が君のペーペーぶりにつけ込んで、勝手に予定を入れているとしたら?」
 彼は車に身体をもたせかけた。
「近森だと好きにさせてもらえないからな、『鬼の居ぬ間に』と言うわけさ。俺に疲れが見えるのだとしたら自業自得だ。気にすることはない」
「専務」
「でも自分の責任にしたいのなら、それもいいだろう。だったら俺が過労死しないうちに早く仕事をマスターしてくれ」
 篁は暮林の肩をポンと軽く叩き、マンションの入り口へと歩きだした。
「専務、朝はやはり私がお迎えに参ります」
 暮林の今日の仕事はモーニング・コールまでで、後はオフ。今回のコンペは会員制のワイン・バーが主催する内輪のもので、篁は同じグループ系企業の一員である従兄から頼まれ、賑やかしに参加するに過ぎない。プライベート扱いなので、迎えもその従兄の車に同乗することになっていた。秘書の出番はないのだ。
 渉外的にはさして重要と言えない集まりだったが、将来の社長・重役候補であるジュニア数人の名が篁の目に止まった。彼らの顔や力量を知ることに損はない。それに本社筋の従兄に恩を売っておくのも良いだろうと考え、彼は参加を決めたのだった。
「『お遊び』にまで有能な秘書は必要ない。君はちゃんと休みたまえ」
「ですが…」
 篁がビジネスの意義を見出した時点で、どんな集まりもプライベートではなくなる。
 暮林は控えめに食い下がった。自分の不手際が招いた『一週間』を、最後まで見届けたかった。
「君が倒れて秘書が二人とも抜けることにでもなったら、困る。」
 しかし彼は許可しない。
 そして、
「俺がいなくても会社は回るが、秘書がいなければ俺が回らないからな」
と魅惑的な笑みで暮林の言葉を封じ、今度こそマンションのエントランスに向かった。振り返りもしない。
 置き去りにされた暮林は、篁の後姿を見えなくなっても追い続けることしか出来ず、自分の不甲斐なさを猛省した。








「ミズ・チカモリのベイビーは女の子らしいね?」
 エヴァンスは通りかかったギャルソンを呼びとめる。トレーに乗った桜色のカクテルを二つ取ると、一つを傍らの篁に手渡した。
「ええ。その節はカードをありがとうございます。彼女も喜んでおりました」
 篁はそれを受け取ったが口はつけない。彼がこの手の甘ったるいカクテルを好まないことを暮林は知っている。当然、エヴァンスも知っていた。これはこの二人の間での合図であり、「そろそろ出ないか?」を意味している。受け取れば「Yes」と言う具合だ。
 レセプション・パーティーの類では見知った顔が多い。情報交換や顔繋ぎの場であり、ビジネス・チャンスの足がかりになることも少なくなかった。ことに外資系大手商社・ノーブルウィングの専務ともなれば『人気者』で、常に周りを囲まれていた。公に誰か一人を誘うことは難しい。もちろん技術提携している社の役員同士、エヴァンスと篁が懇意であることは周知のことだったが、だからと言って公然と篁だけを誘うような真似をエヴァンスはしなかった。
「では私はお先に失礼します」
 時間差をつけて退出し、行きつけのバーで落ち合う――後先はその場の雰囲気で決まり、今日は篁が先に出ることになったようだ。しかし、「それでは私も」とエヴァンスは珍しく、一緒にパーティー会場であるホテルの一室を後にした。
 二人は肩を並べて歩きだし、暮林とエヴァンスの秘書である森澤は、その後ろに続いた。
「君と『飲みに行く』のは、一月以来だな」
「そうでしたか? 二月、三月は何かと忙しかったので、そんなにお会いしていないとは気がつきませんでした」
 実際、篁は多忙だった。五日間のはずだったニューヨークでのクリスマス休暇は、諸事情で正月まで延長され、そのツケが一月にまわった上に、新年の挨拶回り、祝賀パーティー、次年度に予定されている新プロジェクトの下準備で外出しない日はなかった。疲労が溜まっている身体でエヴァンスと過ごしては、翌日の仕事に差し障る。篁が気をつける以上に暮林がスケジュールをあらかじめ調整し、当たり障りのない楽な予定を入れて、エヴァンスの誘いをかわした。二月、三月は各方面も決算期等で忙しく、エヴァンスの名を必要とする会合がなかったことも幸いした。
「それで、ミズ・チカモリの復帰はいつから?」
「新年度から」
「母親になってますます美しくなった彼女と、また会えるかと思うと楽しみだ」
「彼女は社長付に戻りますから、あなたとお会いする機会は減ると思いますよ」
「君の秘書を降りるのかい?」
「以前から彼女を返してくれと言われていましたので。それに育児と仕事を両立するには、私の秘書では忙しすぎる」
 エヴァンスは立ち止まり、チラリと暮林を振り返った。
「ではこれからも彼が?」
「ええ、正式に第一秘書に就きます」
 暮林は伏せ目がちに会釈した。目を上げると、エヴァンスが微笑んでいた。
「手強そうだ」
「彼はよくやってくれます。おかげで近森を返さなくてはならなくなった」
「だろうね。ミズ・チカモリと違って容赦がない。これからはお手柔らかに願いたいな」
 エヴァンスの意味深な言葉に、篁が口元で笑った。
 ホテルの車寄せには、二台の社用車がすでに横づけされていた。エヴァンスは秘書の森澤に先に帰るように指示し、篁の社用車に足を向ける。それから暮林を制して、篁のために自ら後部座席のドアを開けた。
 エヴァンスとの時間を作るであろう日は、暮林が運転して行きつけのバーまで送る。そこから先は完全なプライベートであり、暮林は関与出来ないが、彼らがどのような夜の過ごし方をするのか、知らないわけではなかった。
 篁に続いて後部座席に乗り込もうとするエヴァンスに、暮林はドアを押さえながら囁いた。
「篁は明日、予定が入っております」
 今夜は二ヶ月ぶりの逢瀬。エヴァンスの待ちかねていた様子は、一緒にパーティー会場を退出したことからも明らかだった。釘を刺しておく必要がある。
 エヴァンスは青とも緑ともとれる色の瞳を暮林に向けた。省略された「無理はさせるな」を読み取ったようだ。
「なるほど、手強い」
と彼は言うと、穏やか、且つ、不敵な笑みを浮かべて車中に身体を入れた。
 暮林は静かにドアを閉める。ドアの奥で、篁の声なく笑う気配がした。






Jaune(ジューヌ)=黄色
Fidélité(フィデリテ)=忠誠
黄色は「忠誠」を表す色。



                           <end>2009.04.12



  この作品を三鷹美咲様(Parliament blue)に捧げます 


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