デイヴィッド・エヴァンスはホームパーティーを開くのが好きだ。ハロウィンやクリスマスなど宗教系のお決まりのものはもとより、時間に余裕が出来たなら必ずと言って良いほどカジュアルな集まりを計画した。ことに日本に赴任してからは、四季折々の行事が興味をひいたらしく、春は花見、夏には納涼、秋は月見、冬には節分会(え)と言った具合に、日本人以上に季節を楽しんでいる。
それらに集まるメンバーは、ビジネス抜きの気の置けない親しい仲間ばかりであったが、それなりの地位と職責を持つ人間もチラホラと混ざっていて、呼ばれたことのない、しかしパーティーの存在を知っている者は様々に憶測した。
篁もはじめの頃はそうした噂を耳にして、ビジネス・チャンスに繋がればと誘われるままに顔を出していたが、内実、本当にプライベートな『お楽しみ会』であることを知ってからは、よほどのことがない限り何かと理由を付けて誘いを断るようにしている。よほどのこととは、ゲスト次第と言うことである。芸術家や『県人会』程度のご友人方には興味はなかったが、時折現れる『大物』はひどく魅力的だった。エヴァンスもよく知ったもので、最近では篁を来させるために必ず一人はその大物を招いている。
篁は今回、エヴァンスの自宅マンションで開かれる花火見物を兼ねた恒例の納涼会へ誘われた。
「大使は欠席されるとのことですのに」
後部座席で隣に座る秘書の暮林隆也が呟いた。彼が運転席ではなく篁と一緒に社用車の後部座席にいるのは、浴衣を着付けているからである。納涼会のドレス・コードは浴衣だった。
本来、仕事抜きのプライベートなエヴァンスの集まりに秘書は付かないが、篁は納涼会に暮林を同伴した。
「あからさまにドタキャンでは失礼だろう? それにこれ以上『お預け』したら、ツケがどんどん膨らむ。俺の身にもなってくれ」
見なくても暮林のこめかみに青筋がピクピクと浮いていることが想像出来、篁は口の端で笑った。
エヴァンスとの逢瀬は実に四ヶ月ぶりだった。間にランチをとったことはあったが、純粋に食事をしただけで小一時間で別れた。そんな状態で泊まろうものならどうなることか、今までの経験上、篁にはわかっていた。翌日の休みを一日潰されるのはまだしも、疲れが週明けに残るのは避けたい。月曜はグループ本社で一日中会議が詰まっていて、火曜日からはニューヨークへの出張が予定されている。午前様であれ何であれ、泊まらずに帰りたかった。篁は暮林を連れて行くことをエヴァンスに了承させた。
篁のスケジュールを管理する暮林は、納涼会への出席を反対していた。大方『お預け』のツケはメリット次第で盆休みの一日二日、あるいは秋の連休あたりを宛がうつもりでいたに違いない。社長付に戻った前任の近森理沙から、「たまには便宜を図るように」と申し送りを受けているがゆえ、暮林は不本意でも譲歩すべきところは譲歩する。それはあくまでも篁の負担の少ない時期を選ぶことが前提だった。
翌週のタイトなスケジュールを知りながら、渋々、篁の納涼会への出席を暮林が納得したのは、ゲストにカナダ大使の名前があったからだ。
カナダ生まれのエヴァンスとカナダ大使は大学が同窓なのである。大使の方が少し年長だったし、エヴァンスがトロント大で学んだのは大学院の方であり、二人の在籍の時期は重ならなかったのだが、遠い異国での同郷で同窓と言うのは親しくなる要素として充分だった。外国大使と顔見知りになる機会を篁が逃すわけがなく、エヴァンスはそれを心得て、篁を呼ぶ『メリット』にしたのである。
良いチョイスだったが、残念なことに大使は所用で直前に来られなくなった。
「エアコンの効いた特等席で花火見物が出来るんだ。たまにはいいさ」
二十五階に上がりエレベーター・ホールから廊下に出ると、一番奥の部屋のドア前に立つ浴衣姿の人物が目に入った。篁たちの姿を見とめると、軽く手を振る。白髪に見えるブロンドで、エヴァンスであることがわかった。ドアマンから連絡を受けて、二人が上がってくるまで表に出て待っていたのだろう。
「よく来てくれたね、アロウ。キャンセルの電話が来やしないかとハラハラしたよ。タカヤも、アロウのことは私にまかせて、今夜はゆっくり寛いでくれたまえ」
エヴァンスは慣れた仕草で篁の腰に腕を回し、中に招き入れた。
「今年は白なのだね? 涼しげでよく似合う。これもミズ・チカモリが?」
エヴァンスは篁の浴衣を見て言った。篁の今年の浴衣は、縦絞りの生成り地に一見ドット柄のように見える小さな紺の十の字模様が入ったもので、濃紺の献上柄帯を締めた姿はスッキリと目にも涼しげだ。突然の誘いだった去年とは違い、今年はあらかじめ近森が呉服屋に仕立てを頼んであったらしく、納涼会への招待を受けた午後にはオフィスに届けられた。
「ええ。私は去年の浴衣で良いと言ったのですがね。クレバヤシが持っていなくて、それは彼にレンタルすることにしました」
篁は暮林を振り返った。同時にエヴァンスも、濃灰色と漆喰色の爪あとに似た大きな縞柄が、黒地に染め抜かれた彼の浴衣を見る。
「ああ、それで、タカヤの浴衣はどこかで見た気がしたんだ。アロウとはまた印象が違うが、君もよく似合っているよ」
「ありがとうございます。エヴァンス専務もその浴衣、よくお似合いです」
暮林はエヴァンスの首から足下までを一瞥した。表情を変えなかったが、珍しく口角は上がるに任せている。
エヴァンスの浴衣は青みがかった薄緑の地色に、「来福」のロゴを背負った笑う招き猫柄だった。去年は千鳥に「多賀の湖」と言う力士用浴衣地だったことを篁は思い出した。大相撲の春場所を見に行ってプレゼントされたと話していたが、今年もまた、誰かからの贈り物だろうか。そう尋ねると、今夏の納涼会の為に合間を縫って、自ら選んだものだとエヴァンスは答えた。
「幸運を招く猫なのだそうだよ。可愛いだろう?」
「森澤君は何て?」
近森や暮林なら、この柄を選んできた時点で断固却下、黙って返品交換するはずだ。若いながらも優秀なエヴァンスの秘書の森澤馨が、黙っているとは思えない。
「カオルは私の意志を尊重してくれるからね。特にプライベート用だから、彼は口出しをしないんだ」
エヴァンスのプライベートな集まりで森澤の姿を見かけたことがなかった。対外的にイメージが損なわれず、自分に害が及ばなければ関心がないと言うところか。
浴衣を持っていない客用にエヴァンスと同じものが用意されていて、ゲストのほとんどはそれを身につけている。外国人からすれば特有の柄と漢字のロゴがとても日本的に見えるだろう。
「デイヴ、グラスが足りないわ。それからフルーツ・ナイフはどこかしら?」
広いリビングに入るや否や、少々年は行っているがゴージャスな金髪美女が近づいてきた。彼女もまた招き猫柄の浴衣姿だ。彼女は篁を見ると、「ハイ、アロウ」と声をかけ、挨拶のキスを交わした。この集まりの常連だった。
エヴァンスはグラスとフルーツ・ナイフを取りにホーム・バーの方に分かれて行った。
「君もあのまま我を張っていたら、あの浴衣を借りる破目になっていたんだぞ。近森に感謝するんだな」
篁は空いているソファに腰掛け、座らずにいる暮林を手招きして座らせた。
暮林は招待されたわけではなく、社用として同行すると言うスタンスなので浴衣は必要ないと思っていたようだ。着付けを手伝いにオフィスに来た近森が、社用のクローゼットから去年の篁の浴衣を取り出し暮林に渡した。上司のものを借りることに恐縮した彼を、強引に彼女が着替えさせたのだった。暮林は帰宅したらすぐにメールを入れ、月曜日には直接礼を言うと答えた。
――それにしても、何だか変わった匂いがするな。
そこはかとなく線香に似た匂いがする。亡くなった祖母が好んだ、今も仏壇の線香代わりに焚き染めている白檀の香とは違う、しかしどこか懐かしいものだった。そう言えば、晩年まで田舎暮らしをしていた祖母が「これじゃないと効いている気がしない」と、夏場は渦巻き型の虫除け線香を焚いていたことを思い出した。長年焚きこめられた上品な香(こう)を一蹴するあの匂いに似ている。
篁はリビング全体に目を走らせた。スタイリッシュな広い部屋の隅二箇所に、似つかわしくない見覚えのある丸い缶が置かれている。細い煙がたなびいているのが見えた。祖母が使っていたのと同じ、蚊取線香なるシロモノである。
「何であんなものがあるんだ?」
篁の呟きに反応し、暮林がその視線の先を見た。
「ああ、あれは私がお勧めしたのです。先日、『日本的な夏のものは何か』とお尋ねになったので」
日本の夏の風物詩なら、いくらでも他にあると言うのに、蚊の飛行限界高度を超えた高層マンションでは必要のない、見た目で楽しめるわけでなく、馨しい匂いとも言えない蚊取線香を勧めるとは、篁は何か作意的なものを暮林から感じた。
蚊取線香の匂いは強烈だ。シャネルもディオールも太刀打ち出来ない。今夜、この場にいる客達は、一様に身体にこの匂いをしみこませて帰宅することになる。上司の安息日を奪うエヴァンスに対する、暮林のささやかな意地悪と言えなくもない。
「ひどいヤツだな」
篁は笑った。暮林もつられて笑う。
「楽しそうに、何を話しているんだね?
頭の上から声が降ってきて、篁は顔を上げた。両手にシャンパン・グラスを持ったエヴァンスが立っていた。グラスの中で金色の液体が美しい気泡を漂わせている。
暮林は慌てて立ち上がったが、篁はエヴァンスの浴衣の柄とシャンパンのギャップに笑いが噴出しそうになり、それを抑えることを優先したので一瞬遅れた。
エヴァンスの隣には若い女性の姿があった。赤毛の髪をきれいに結い上げ、その瞳と同じスカイブルーの地に、ハイビスカスに似たピンクの花と言う斬新な絵柄の浴衣を身に着けている。年の頃は二十歳前後、今夜のゲストの中では断然若い。
「素敵なお嬢さんだ。こちらは?」
篁の言葉に彼女は微笑み、「キャロラインです」と名乗った。
「大使のお嬢さんだよ。夏休みで日本に滞在しているんだ。タカヤに話し相手を頼もうと思ってね」
暮林が「え?」と言う表情をエヴァンスに向ける。
「日本は今回が初めてでね、色々なところを回ってみたいのだそうだよ。面白いところを教えてさし上げてくれないか? 私の友人はオジサン達ばかりで、若者向けのスポットに疎いから」
彼女は邪魔者=暮林を追い払うためにエヴァンスが用意したアイテムだと篁は思った。それは暮林もわかったらしいが、相手がカナダ大使の娘では無下には断れない。仕方なく、しかしそんな気持ちはおくびにも出さず、そして愛想笑いさえ浮かべ、暮林は「いいですよ」と応じた。まったく、最上のアイテムを用意したものである。
「いつまでも『迷って』いないで、本来の道に戻りたまえ」
花火が良く見える窓際の席へと移動しようとする暮林に、そっとエヴァンスが耳打ちする、篁に意味深な流し目を送りつつ。
「この花は触れてさえも手に入らない。見ているだけでは尚更だよ」
「ご忠告、ありがとうございます」
暮林は淡々とした口調で返すと、キャロライン嬢を伴って離れて行った。
エヴァンスは篁に席を勧め、シャンパン・グラスの一つを手渡すと隣に腰を下ろした。
篁が持つグラスに、自分のグラスを寄せてカチンと音を立てる。その所作はスマートで、日本人と違って違和感がない。
「煽ってどうするんです。後で泣きを見るのはあなたの方ですよ?」
篁のスケジュールを暮林が管理を始めてからと言うもの、エヴァンスからの誘いはたとえ『メリット』が付いていても、グレードが低いと判断されると遠慮なく切られた。一応は伺いを立ててくるのだが、暮林の判断は的確で、篁は了承することが多い。それにこの一年で篁の顔と名は政財界で認知され始めていた。利害の介在する関係が解消される日も、そう遠くはないだろう。
「泣きは見ないさ。お預け期間が長いだけで、今日のようにメリットがなくなっても、君は時間を作ってくれるだろう? それがわかっているから、タカヤで遊べるんだよ」
「大した自信だ」
エヴァンスはにっこりと笑った。
「私の利用価値がなくなる前に、ぜひとも別の意味で価値を見出してもらえるようになりたいものだ」
部屋の明かりが消えた。花火大会が始まる時刻だった。ゲストは窓辺の特等席へと向い、途端に篁たちが座るソファの周りからは人気が消えた。
ほどなく防音ガラス越しでも微かに花火の音が聞こえてきた。その都度に歓声が上がり、ゲストの意識は完全に花火へと向いたことがわかった。
篁が一口シャンパンを含もうとした刹那、グラスはさらわれ、代わってエヴァンスの唇が寄せられた。短く音をたて軽いキスを生んだ後、彼の唇は頬に耳朶にと移動する。
「ベッド・ルームへ行かないか?」
エヴァンスは甘い声で囁いた。
「私は自分で浴衣が着られない。あなただってそうだろう?」
「クローゼットには君の服も入っているよ」
啄ばむようなキスが、囁く合間も続く。
「二人して着替えたら、変に思われる」
「私の帯はね、ワンタッチ帯と言うのだそうだよ」
エヴァンスは片目を瞑って見せた。夜目にも得意げな表情がわかった。
ワンタッチ帯とは、あらかじめ結び目を作り付けてあり、マジックテープで着脱が出来る帯のことである。つまりベルトなどと変わらないくらい、帯を締めることが簡単だ。
「知恵が回りますね?」
「ミズ・チカモリが教えてくれたんだよ」
――余計なことを
顔から首から、エヴァンスのキスを浴びながら、脳裏に浮かぶ有能な元秘書に向って呟いた。
紳士的で女性に対して細やかな気配りが出来るエヴァンスに、近森の覚えは良かった。彼女曰く、男の可愛らしさがあるのだと言う。
ゲストはほとんどが外国人で、自前の浴衣で納涼会に来ることは珍しい。用意した――今回は招き猫柄の――浴衣に簡単に着替えられる方法を相談され他意なく助言したのだろうが、要らぬお節介だった。
「Show oh into Horse Liver、Mars Uma oh Ioだよ」
「何ですか、それ?」
単語の羅列のような、およそ文法になっていない文章に篁は首を傾げた。
「日本のコトワザだよ。『Love the babe for her that bore it』」
「ああ、『将ヲ射ント欲スレバ、マズ馬ヲ射ヨ』のことか」
「日本語の発音は難しい」
エヴァンスは肩をすくめた。その仕草は確かに女性から見ると、いや女性に限らずチャーミンクに見えるだろう。チャーミングなだけではなく、一種のカリスマ性も併せ持つ。完璧で隙を見せない反面、ユーモアも忘れず、緩急を自在に操り人心を掌握する。彼は自分の魅せ方をよく心得ている。エヴァンスをノーブルウィング社の次期CEOにと押す勢力もあるとか聞くが、それも頷けた。案外、招き猫柄の浴衣も、蚊取線香も、計算されたものかも知れない。
――だから油断出来ないんだ。
『天然』だと思わぬ方が良い。世界に有名を馳せる巨大商社・ノーブルウィングの一翼を担うほどの男だと言うことを、篁は常に忘れずにいた。
「Aimé」
一層、艶のある深い声が響いた。彼の方に意識と顔を戻すと、唇が強く押し付けられた。先ほどまでの軽いキスではなく、唇が重ねられた瞬間から彼の熱い舌先が、隙を見せた篁の口腔に滑り込む。エヴァンスが、今はもう誰も呼ばなくなった篁のセカンド・ネームで呼ぶのは、二人きりの時だけだった。だから二人きりになりたい気持ちの現れなのだろう。篁はエヴァンスの舌を軽く噛んだ。一瞬怯みを見せたものの、エヴァンスは諦めずに篁の閉じられた歯列を舌先でノックする。
篁はチラリと窓辺に集まる他のゲストを見やった。連続花火が始まって、皆、そちらに釘付けだ。今なら、リビングを抜け出しても誰も気に留めない。篁はエヴァンスの胸を押し、深くなろうとするキスを止めさせた。
「続きはベッド・ルームで」
そう言って篁が立ち上がる。エヴァンスもそれに続いて、篁の腰に手を回した。触れるか触れないかの軽さ、それでいて少しでも篁が彼の腕から離れようとすると、すぐに枷となる生身の重みを持つ。プライベート・モードでの、呼び名同様示されるエヴァンスなりの支配欲だ。彼ほどの男にそんな風に感情を示されるのは悪い気はしないが、本気にするほど篁は初心ではない。
「何を考えているんだね?」
歓声に沸くリビングからプレイベート・ゾーンに続く玄関ホールに出る。後ろ手でドアを閉めたエヴァンスは、篁の顔を覗き込んだ。
「あなたのことですよ」
嘘ではなかった。ただ甘い類のことでではないだけで。
「嘘つきな唇だ」
エヴァンスは苦笑を浮かべると、篁の顎に手をかけ自分に向けて固定した。間接照明が作る淡い金色の灯りの中、ベッド・ルームまで待ちきれない彼の唇が、再び篁に迫る。
篁は今度は拒まず、その口づけを受けた。
<end>2010.08.17
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